マッドマックスフュリオサ観てきた
本作は「デスロード」でお馴染みのイモータン・ジョーのシタデル、前作で存在のみが明かされた緑の地のほかに、ディメンタス率いる地獄バイカー軍団が登場したが、本作では前作と比較しシタデルと地獄バイカー軍団の生活史を紐解けるような描写が多く興味深かかったので、そのあたりに関して観ていて考えたことをメモしておく。
まず本シリーズは核戦争後に秩序が崩壊し世界すべてが砂漠化している世界観なのだが、イモータン・ジョー率いるウォーボーイズ、並びに水などの資源を擁するシタデルでは非常に高度な社会を形成している。
ここでいう「高度」とはインフラや倫理面で高水準という意味ではなく、社会性動物として高度、すなわち真社会性動物であるハチやアリに近いという意味で、彼らはコミュニティの維持そのものを目的とした道具として扱われている。
ハチやアリの場合は、個体それぞれの命を捨てる利他行動すべてがコロニーそのものが女王の仔で、それぞれが極めて近い血縁関係にあることから成り立つ血縁淘汰という考え方で説明できるが、血縁を持たない寄せ集めのウォーボーイズではそれがジョーの超合理主義に基づいた施策により実現している。
ジョーは人間を道具とみなし物事すべてを利益の大小でしか評価していない。例えば、「ウォーボーイ」の全身白塗りに丸坊主という「フォーマット」は、性別・人種・疾病の有無などといった差異を均一化するはたらきがあり、結果として過酷な世界においてウォーボーイという「新しい人種」、ならびに連帯コミュニティを形成することに成功している。これはジョーがレイシズムのような「非合理的な思想」に染まっていない(もしくはそれよりもコミュニティの形成を高利益と判断している)証拠である。
さらに彼らに植え付けられた、「希望のない現世には意味がなく、仲間のために死に"ヴァルハラ"に行くことこそ意味がある」という教義は、戦いにおいては進んで死を選択するが、自殺は選ばない精神性を彼らの中に形成し、血縁関係のない働きアリたる彼らに利他性を発現させている。
ウォーボーイは栄養状態や病気、教育の不十分さからか、個としての能力は一部を除き身体的・知能的にもさほど高くない(本作でも何も考えず地獄バイカー軍団にシタデルの情報をすべてバラしてしまっていた)が、その全員が迷わず自爆を選ぶ兵と考えると非常に強力である
またその姿勢はフュリオサへの対応においても顕著である。
例えば、妻の身分から逃げ出し、組織内で成り上がったフュリオサをそれと見抜き(そうでなくても健康かつ容姿端麗なメスであるフュリオサを)無理やり妻にすることは難しくなかっただろうが、それをしなかったのは産む意思のないメスを妻にしメカニックを1人失うコストと出産確率の低さを利益と天秤にかけた結果だろう。また「デスロード」では物語開始に至るまでもフュリオサが複数回脱走を試みていたことが中盤明かされるが、ジョーがそのコストを背負ってまで有能なフュリオサを重役に起用していたことは、成功確率が低く、頻度としてもおそらく数年に一度程度の「イベント」のリスクを取りフュリオサを粛清するよりは「イベント」を受け入れ有能な兵士を起用し続けることの方が利益率が高いとした結果だろう。結果的にその判断はシタデルにおけるイモータン・ジョー政権の崩壊を招くがマックスというイレギュラーがいなければフュリオサは連れ戻されていたはずで、間違った判断とは言えない。こういったフュリオサへの対応からは、ジョーが個人的な性欲や憎しみではなくコミュニティの維持と発展を目的とし、忠実な兵士ウォーボーイズ、子を産む妻、「乳牛」の女たちのみでなく、絶対的カリスマとしての自分さえもひとつの道具として扱っていることがわかる。
(一点補足すると、「デスロード」にてフュリオサに連れ去られた妻を追う過程でジョーが側近の一人に「利益に対して大きな損失を出している」とキレられるシーンがあるが、あれもジョーが利益度外視で妻(とその子)を追っていたわけではなく、単に死後もコミュニティを維持するために一人でも多くの息子を得ることを最優先事項と考えていたジョーとそこまで広い視点で物事を見ていない側近の価値観の相違が現れただけだと自分は考える)
対してディメンタス率いるバイカー地獄軍団は、「軍団」とはあるものの実態としてはそこまで身分の差があるようには感じられず、側社会性動物的といえる。側社会性とは動物が社会性を獲得する過程の仮説に使われる概念で、血縁がほとんどない個体同士で特別利他的な協力などをし合うわけではないものの、同じ場所に固まり生活することで捕食リスクを下げるなどといった利益を得ている状態を指す。
バイカー軍団はウォーボーイズとは異なり、一人一人が高い技術力と戦闘力を有している。 そんな彼らが付き従うディメンタスはイモータン・ジョーにも匹敵するカリスマ性の持ち主である上、荒廃した世界の中でも筋骨隆々な肉体を保持している。
一方でディメンタスは完全にノリの男でもあり、発する言葉はダブルスタンダードが多く、コミュニティを運営する政治力にも乏しい。偶然存在を知っただけのシタデルを何のプランもなく襲撃し、シタデルの住民達に蜂起を呼びかけていたはずが自身が施政者になると搾取を初め(どの程度のものかは描写されないが)その上でまだシタデルの解放を叫ぶ。
自身の死後も見据えた長期的なプランを念頭に動いているイモータン・ジョーとは対照的に、ディメンタスはあまりにも刹那的、その瞬間しか頭にない人間である。彼はガスタウン襲撃の際に思い付きで仲間を殺した結果重要戦力の謀反を招き、最後には刹那的に母を殺し逃亡のスキを与えたフュリオサの手によって引導を渡されることになる。
しかし、彼の破滅を招いた刹那性はそのまま強大なカリスマ性に接続している。
まず前提として舞台であるウェイストランドは1秒後の生死すらわからない世界観であって、イモータン・ジョーのように持続可能な資源を掌握できていない限りは長期的なプランニングなど無意味である。バイカー軍団もそれを理解しているからこそ、ディメンタスのダブルスタンダードをまったく気にせず彼の刹那的な行動に従う。
彼が度々口にする「この世界に希望はない」という言葉は彼とバイカー軍団の刹那的な行動の原動力をそのまま表している。拠点を持てない彼らにベッドの上で安らかに死ぬ最期は待っていない。たとえシタデルのような資源を掌握できたとしても彼らにそれを基盤としたコミュニティを維持する政治力はなく、事実ガスタウンさえわずかな期間の間に崩壊を招いた。
だからこそ彼らは本来同じ立場であるはずなのに何らかの希望を持っていたフュリオサとジャックを許さず凄惨なリンチを加えた。彼らの目的が本当に「シタデルを奪い、自分達がその主になること」であれば、二人にシタデル襲撃の情報提供や協力を持ちかけることこそ筋であるし、追手を差し向けられるリスクを抱えている二人からすればむしろそれは願ってもない話だろう(フュリオサがディメンタスとの連帯を飲めるかは別として)。話も聞かずリンチし、フュリオサに至ってはその過程で逃してしまうというのはあまりに非合理的であり、バイカー軍団の目的が死ぬまでのヒマつぶし以上のなにものでもないことを顕著に表している。